科学であり、芸術であり、哲学でもある 第1回:新たに見出された社会が待っている!

20.05.26 01:57 PM By s.budo

民主主義社会というのは、「個」の社会である。


「個」が確立してはじめて民主主義の社会に生きているといえる。このような社会で行動するということは、国のため、社会のため、他人のため、学校のため、世のため、人のため、に行動するということではない。世の人のためというのは、本当の民主主義ではない。まず自己を確立し、そして次の段階で初めて『〇〇のため』ということになるのである。自分のために行動し、その結果として自分の幸福感をもてることが、これからの社会生活を営む時に考える基礎となる。



 現在のように社会が混沌としている中で生きていくということは、「自分探し」ということである。「私は何者なのか?」「私はどういう性格なのか?」「私は今何を考えているのか?」「私はどう生きればいいのか?」という自分を探し、自立することが求められる。


 しかし、日本では新しい理念はいつも上から生活の場に降りてくる。その結果、理念と現実がうまく関係を結べていない。生活感覚や目先の利益が最優先されてしまっている。また知識ばかりが問われて、知識をいかに現実に結びつけて考え、行動するかが教えられていない。内容はどうあれ、とにかく法律や規則に従うという発想である。その結果として、思考が停止してしまうということにつながっているのである。

では法律や規則は本当に正義といえるであろうか。


 これまで、欧米を始めとする先進諸国は豊かさを追い求めることに没頭し、生活が豊かになりさえすれば幸せと思い込んできた。それによって幸福感を味わったのである。このように経済の成長をスローガンにして、社会は変貌して現在に至った。ところが日本ではバブル崩壊を機に経済が失速し、目標を失ったまま30年が過ぎ、ウィルス禍の今、混迷はさらに深まり、何に価値を見出してよいか分からない状態である。何を精神的支柱にして、何を求めてよいのやら分からず混沌としている。


 この時期に生きる我々日本人は、基本に立ち返って「日本とは何か」「日本人とは何か」ということをもう一度考えてみる必要がある。



 今は民主主義の時代である。人民が主の時代であるがゆえに、人民は何をする時でも責任を持たねばならない。自分の責任で考え、自分の責任で行動し、自分の責任で責任をとらなければならないのである。それを実行するには、自分の心の中に、永遠の不偏な「正義」を持たなければならない。


「法律は法律であり、規則は規則」である。しかし、そういう規則がある以上はそれに従うべきであると考えるのではなく、「自己の内規」に反するような価値のないものを相手にするのは、自己の価値を下げるに等しいのだ、というくらいの覚悟が「正義」である。


 大切なのは、「内なる正義」である。外なる法律は所詮想定のものである。正しい正しくないはいくらでも変わる。現に、法律でもスポーツのルールでも何年かに一度は変わる。法律やスポーツのルールは時代によって変わる、同様にその時の権力者の論理によってルールも変わるものなのである。


 自分自身が一番真剣になれるところで仕事をし、常に自身の「心の諸要求」を見失わないように警戒を怠らないこと以上に大切なことはない。


 これからの時代、人は決して「個」を殺してはいけない。特に現代は国や組織に信頼がおけない時代である。「個」に徹して実力を磨く以外に私たちの生きる道はない。自身の内部から湧き上がる興味と悦びのないところに、「個」の内部から噴出す情熱のともなわないところでは自分を見出すことはできない。そういう意味で、自己の「心の諸要求」に忠実でなければならない。自分で「個」を守り、自我を生かさなければならない。


 論語に「身を殺して仁をなす」(衛霊公)という言葉がある。「わが身をなげうって仁のためにつくす。自分の生命を犠牲にして、人道の極致を成就する」という意味であるが、身を殺すより大きな勇気を、「身を生かす」ために要することがあることを忘れてはならない。



 変革期における多様化は伝統を解体するどころか、むしろその良き面をさらに活性化する動力源と考えたい。そこにこそ古い伝統に導かれて今日に存在する意味がある。これが「温故知新」というものである。


 いかに社会が発展しようとも、どれほど科学が進歩しようとも、われわれが困難に直面し、それを解明しようとしても絶対に越えることのできないものがある。そこは目に見えない、触れることもできない神秘な部分である。その神秘的なものは神であるとも、自然であるとも言えるし、宇宙であるとも言える。それはわれわれを取り巻いていながら理解を超えて解決できないものである。そういう不可解なものに対して、人間が理解を超える部分が生じてくる。そのときに我々が認めなければならないことがある。
人間はどんな知識、科学を使って理解しようとしても万能ではなく、支配をすることが不可能であるということを認めざるをえなくなる。それを認め、分からないところを分からないと認めることによって、人間を成長させるのである。そして出来ないと分かった結果、謙虚な姿勢をとり、繰り返し新たな挑戦の意欲を沸かすことによって人間的成長をもたらすのである。



 より良く生きていく上で、この機会に孤独になって自分ひとりで考えることである。精神の自由と独立のためにとか、何のために生きていくかということを、自身と向き合い真の意味での哲学的な問いを発する必要性があるのではないか?

哲学的とは、どうやって生きるか、どうやって生きていくかという問いである。

哲学するということは、何故自分は今ここにいるのか?死とは何か?生とは何か?ということを自分で考えることである。そして自分自身を発見すること、すなわち見出す事である。


 各自が自己を見出した先には、新たに見出された社会が待っていると確信する。



プロフィール

盈進義塾興武館 第三代目館長 小澤 博  剣道教士八段


稽古の心得
一回の稽古、一本の打突は一期一会の精神で行うこと。そして稽古を通じて、自己の創造に心掛けること。形には表れないが、心の中では猛獣が牙をむき、爪を露出させ、毛を逆立てて闘争する覚悟がなければなりません。


しかし、稽古が終わって面をはずしたならば、それまでの闘争意識から離れ、一般社会人としての日常に戻る。そして最も大切なことは、稽古を通して人格と人格の全人的な切瑳琢磨が、剣道を修行する人たち一人ひとりを心身ともに成長させることに繋がるということです。