科学であり、芸術であり、哲学でもある 第2回:捨身で取り組む

20.06.22 11:23 AM By s.budo

捨身で取り組む

私は、持田盛二 範士十段に一度だけ稽古をお願いしたことがある。当時、持田先生は83歳、私は19歳だった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%94%B0%E7%9B%9B%E4%BA%8C wikipedia より転載
持田先生は、剣道に品位・風格が現れなければならないと言われた。

剣道における品位・風格とは何か。

「花に例えれば香のようなものである。香りが漂ってくるような剣道でなければならない」ということである。


どんなことをしてでも、どんな格好をしてでも勝てばいい、というものではない。
私は剣道観=人生観と捉えている。
それゆえ、どのように我が人生を送るか、ということが確立していれば、自ずと剣道観もそのようになってくるはずだ。剣道では性格が表れる。人それぞれ自分の人生観に沿った剣道をするようになる。

それが剣風というものなのだろう



ひたむきに全力で傾注すれば後に悔いは残らない。そこまで徹底した結果、名声を得るわけでもなければ、金が儲かるわけではない。さらに高い地位を得るわけでもない。そういう浮世の功利性とは無縁であるという意味において無償の精神、その無償の行為にひたすらに賭ける情熱がなければならない。
しかし、今日、結果が最重要視され、それまでの過程は大事にされていない。


結果を重視する風潮が、世の中全てを覆いつくしてしまっている。

ビジネスは利潤追求を目的としており、利潤は結果である。つまりうまくやって儲けるという精神がビジネスの根本になり、結果が悪ければボロクソということになる。だが本当の、そして本来の目的は、剣道でいえば純粋に鍛錬すること、ビジネスであれば良い商品を生み出すこと自体にあるのではないか。

人や企業の存在価値はそこにあると思う。
義兄 安藤宏三 先生は新入会員には特に厳しかった。老若男女を問わず、かなり強烈な稽古をした。

何年か前に、定年で故郷大分に帰った上(うえ)さんなどはかわいそうだった。
義兄との稽古が終わると、右手を支えに壁にもたれ掛かってゼイゼイ言っていた。


女性にも容赦しなかった。まさにボコボコという言葉が適切だ。小玉真琴さんは最初の稽古の事を今でも覚えている。
「『来るんじゃなかった』と思った」と今でも言う。しかし、初心者には優しかった。


剣道とは少し異なるかもしれないが、将棋を例にとって書いてみる。将棋の名人 升田幸三 著「王手」の中に、修行について興味深い一節がある。
「私どもで、師匠が弟子を叱るのは、基本を身に付ける段階までです。基本を徹底的に鍛えまして、まず我流を取り除く。最初から自由にするというのは大間違いで、これは教育する方の責任です。躾はきちんとやっておいて、基本が出来てから自由にしてやるのが本当です。


なぜ自由にしてやるかというと、基本までは師匠の責任だが、そこから先は自分の味をつくり、身に付けるのは本人の責任だからです。この、味、というものが大切なんです。(中略)そしてこっぴどく負かされながら、小野道風の手本のカエルじゃないけれど、失敗しても、失敗してもあきらめずに柳にとびつくようにして、その数をかさねるうちに、自分で鍛え、自分で会得していくわけです」。

「ボコボコにされてやめる人は、最初から剣道なんかやらない方がいい」というのが、義兄の考え方だった。強い相手に立ち向かっていく人が伸びるという考えが根底にある。

宮本武蔵 の「五輪書」や「独行道」には、武蔵独特の精神性つまり他人に頼るのではなく、「個に徹して実力を磨く」という強さと自立というものがある。「独行道」の中の第一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。


小林秀雄 は『小林秀雄全集』第九巻で、「私の人生観」と題して、武蔵の「独行道」を取り上げている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5 wikipedia より転載

「これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分をつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬといふ様な浅はかな意味ではない。

今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいふものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。

そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言へよう、さういふ意味合ひがあると私は思ふ。

昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだらう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いて行ても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみる、そういう確信を武蔵は語っているのである。


それは、今日まで自分が生きてきたことについて、その掛け替えのない命の持続観というものを持て、という事になるでせう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先に立っても立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人が言ふのであります。


行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡と悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます」。



ゴールが見えない、過去の延長線上に未来(結果)が無くなった状況下、何事にも捨身で取り組む、またとない機会です。

プロフィール

盈進義塾興武館 第三代目館長 小澤 博  剣道教士八段


稽古の心得
一回の稽古、一本の打突は一期一会の精神で行うこと。そして稽古を通じて、自己の創造に心掛けること。形には表れないが、心の中では猛獣が牙をむき、爪を露出させ、毛を逆立てて闘争する覚悟がなければなりません。

しかし、稽古が終わって面をはずしたならば、それまでの闘争意識から離れ、一般社会人としての日常に戻る。そして最も大切なことは、稽古を通して人格と人格の全人的な切瑳琢磨が、剣道を修行する人たち一人ひとりを心身ともに成長させることに繋がるということです。