捨身で取り組む
私は、持田盛二 範士十段に一度だけ稽古をお願いしたことがある。当時、持田先生は83歳、私は19歳だった。

「ボコボコにされてやめる人は、最初から剣道なんかやらない方がいい」というのが、義兄の考え方だった。強い相手に立ち向かっていく人が伸びるという考えが根底にある。

「これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分をつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬといふ様な浅はかな意味ではない。
今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいふものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。
そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言へよう、さういふ意味合ひがあると私は思ふ。
昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだらう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いて行ても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみる、そういう確信を武蔵は語っているのである。
それは、今日まで自分が生きてきたことについて、その掛け替えのない命の持続観というものを持て、という事になるでせう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先に立っても立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人が言ふのであります。
行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡と悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます」。
ゴールが見えない、過去の延長線上に未来(結果)が無くなった状況下、何事にも捨身で取り組む、またとない機会です。